青梅五日市線

青梅五日市線のルーツは石灰とセメントの搬送用に敷設された軌道です。

上成木と北小曽木で製造される石灰は、江戸時代から変わることなく大きなシェアを占め続けてきました。
しかし、その消費地への輸送法は時流に沿って変容を重ねました。
古くは、成木街道や青梅街道を馬継ぎ。1700年台初頭からは、新河岸川からの舟運。
そして、19世紀末、搬送の便は鉄道へと移行します。

1894年(明治二十七年)に立川−青梅間を開業した青梅鉄道は、より奥に新たな鉱脈が拓かれる度に路線を延長しました。
一年後に日向和田に延ばし、さらに、1920年(大正九年)には二俣尾、1929年(昭和四年)には御岳まで延長しました。

一方、1925年(大正十四年)に五日市鉄道の「拝島−武蔵五日市間」と「武蔵五日市−武蔵岩井間」(後に廃線)が開業しました。

1944年四月には、戦時の国策により、青梅電気鉄道、五日市鉄道、南武鉄道は、政府に買い上げられ、それぞれ、国鉄青梅線、国鉄五日市線、国鉄南武線となりました。

鶴見造船、淺野セメント、日本鋼管、の三社が出資して1937年(昭和十二年)に設立した奥多摩電気鉄道により計画された御岳−氷川間の延長工事は、 小河内貯水池建設の進展を契機として1939年(昭和十四年)に着工し、突貫工事の末、五年後に完工しています
軌道竣工の前年に完成していた氷川駅(現在の奥多摩駅)の供用開始と同時に、奥多摩電気鉄道は青梅線に併合され、もって現在の「青梅五日市線」全線の体裁が整いました。
国営化から四ヶ月後の1944年(昭和十九年)七月のことでした。

多摩地方を中心とする半世紀にわたる鉄道建設は石灰産業の主導で行われたものです。
専用に近付けたい事業者側、旅客や一般貨物の運輸を併せて要望する地元自治体や地権者、そこに国策も絡む。
利害の錯綜する、この図式は、二度の世界大戦を挟む世相と相まって、路線を接する甲武鉄道(現在の中央線)や南武鉄道(南武線)にも関わる、複雑な紆余曲折を生みました。

道路輸送の優位性が増すに連れて主役はトラック便に移り、石灰石列車は1998年を以て100年を超す歴史に終止符を打ちました。
旅客を主とする現在の青梅線は、沿線住民の生活に不可欠な便であり、奥多摩に自然を求める人たちの足としても貴重です。

−注−「青梅鉄道」と記されている文献もあります。

記述と文責/中森進一

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