ワンボードマイコンが一部のマニアの間で話題になっていた頃から興味だけはありました。
高校一年のとき(1965年)には、コンピューター専門校の夜間授業に通おうとチラッと考えたこともあったのですが、
本屋での立ち読みで入門書を1ページ眺めたところで諦めました。
いわく、コンピューターとはカウンタとレジスタ、メモリからなる、情報処理装置である。うんぬん、、。
とてもじゃないが、時間が足らないと思いました。
以来、ナンドだのノアだのJKフリップフロップだの呪文を唱える輩の煙に巻かれ続けて今日に至っています。
MZ-2000からべクトリオ(アップル2のコンパチ機、ショップブランド)、アップル2C、SORD、ダイナブック、ACERのXTコンパチ、ガレージショップブランドのATコンパチ、コンパックのノート、等等、
10数台ほどのコンピューターを使ってきましたが、上っ面をなで回すだけで、いまだに初心者です。
日本製パソコンのハシリです。
購入時に装備されていたのは、モニタ、キーボードと共にモールドされた本体だけ。
カセットテープのベーシックインタプリタは、たしか別売りだったと思います。
それを、起動の度に読み込んでメモリに常駐させ、ベーシックの直接コマンド、または、プログラムで仕事をさせます。
VBではコンパイラでエグゼキュータを生成するのが当たり前ですが、
当時のベーシックコンパイラは高価な上、使いこなすにはスキルが必要でした。
私が作った最初の「プログラムらしきモノ」はアマチュア無線のコンテストで使うための「コンテストログ」でした。
「数メガのCPUクロック+キロバイト単位のメモリ」と「ベーシック」の組み合わせには荷の重い仕事です。
ハードの力不足は他メーカーも横並びで仕方ありませんが、MZ-2000用のベーシックは他社製に比べてひ弱でした。
最も顕著な例が繰り返し処理です。for/nextループしかなかったのです。
for/next文で演算の繰り返しを行わせようとすると、分岐条件の評価結果によっては、適宜 j=j-1 としてカウントを一つ戻す処理を挟まなければなりません。
言語の機能不足をプログラムの書き手が補うわけです。
while文やforeach文、untill文が備わっていればこんな目には遭わずに済むのに。
私の場合、予備知識無しの徒手空拳でしたので技を編み出すしかありませんでした。上記の j=j-1 も自分で思いついた工夫です。
他にも、本来のコーディング作業に取りかかる前の段階での細工が必要でした。
MZ2000のベーシックに素手で挑んだ人は例外なく同じ経験をしていると思います。
完成したプログラムを試してみると実用になったのは交信数100局目くらいまでで、以降は処理速度が落ちて使えませんでした。
ただ、この舌足らずなベーシックは、なぜか、二次元配列をサポートしていて、情報管理に関してはまあまあでした。
もし、動作速度がもっと速かったら、マルチを含む点数計算や、サマリー出力まで踏み込んだ公算が大です。
そんなことをしたら「脳みそがウニ」になったことでしょう。「MZ2000+basicの鈍足は私にとっては天恵」だったのかもしれません。
ハムの友人を介してソフト開発を生業とする某OM(この人もハム)にプログラムを見て貰ったところ、添削してくれるどころか、何をトチ狂ったか私を買いかぶったらしく、自分の仕事を手伝ってくれと頼まれて、断るのに難儀しました。
後日、漏れ聞いたところではコンパイラに掛けたら実用域のスピードが出たとか出なかったとか、、。
パッケージソフトはカセットテープメディアのゲームが主でした。
ワープロソフトも売られていましたが、PlaneText並の文書しか作れませんでした。
VZエディタの方が遙かにましでした。
後に、フロッピーディスクドライブ2台と、プリンター、また、当時、一般向けサービスを開始して間のないNIFTYにアクセスするためにモデムを買い足しました。
これが最低限の仕事をさせるための一揃い。なんと七十万以上掛かりました。
この少し前から、首都圏を中心に五店舗(世界全体では七千店舗あったそうです)を展開した米国のエレクトロニクス専門チェーン、タンディーレディオシャックからTRS-80が売られていました。
最上位機種のレベル2はROMに焼いたシステムとベーシックにRAMが4Kbytes。
オプションでRAMは16Kbytesまで増設できました。
マニア間では話題になりましたが、一般には大したエポックにはなりませんでした。
機種名TRS-80は社名と使用CPUのZ80のサフィックスを繋ぎ合わせたものでしょう。
Z80は当時としては画期的なCPUで、MZ-2000の先行機種であるMZ80の名もこれに因んだものです。
経理に使っていました。8インチフロッピーの動作音、カチャコン、ガチャコンが今も耳に残っています。
下の写真の左側がSORD/M23です。
アップル2のコピー機です。
市井で手に入る部品のみで構成された安価なパーソナルコンピューター、アップルは、その上で走るアプリケーション、ビジカルクの登場と相まって爆発的に売れました。
しかし、その後は、むしろゲームマシンとして一般に浸透していきます。
ゲームが山ほど作られ(任天堂のマリオブロスやドンキーコングも移植されました)、コピー機が巷に溢れ、ユーザーも幾何級数的に増え続けました。この相乗効果は数年続きました。
コピー防ぎのガードやプロテクトがゲームソフトにかけられ、そのプロテクトを破るためのプログラムが開発され、それを遮るプロテクトがまた編み出される。
このイタチごっこは、コンピューターホビーのサブカルチャーになりました。
ロードランナ、ハドロン、リトルコンピューターピープルリサーチプロジェクト、ピンボールコンストラクションセット、ゼニス、AI、
チョップリフタ、ザクソン、クライシスマウンテン、レッドアラート、キャッスルウオルフェンシュタイン、クエスト、アステカなど、
後のコンピューターゲームのルーツがアップルをプラットフォームとして、この時期に生まれたのです。
CPUクロックもメモリー容量も現在の標準の何百分の一という貧弱なアップルのパフォーマンスをゲームの作り手達は神業的な工夫で補っていました。
私も、一時、嵌って、1時間ほどゲームに費やす日々が二三ヶ月続きました。
特に熱中したのはロードランナですが、135面が難しく、クリヤするのに数週間かかりました。
そこを乗り越えると、ロードランナのみならずゲーム全般に興味を失い、以降、現在に至るまで、ソリティアをたまにチェックする程度がゲームとのお付き合いです。
下の写真の右側がApple2Cです。なかなかの見てくれです。パケットの端末に使っていました。
左−Sord-M23-markU、右−Apple-2C、
DOS/Vが騒がれ始める数年前=1980年台半ば、私の周りにはタワーケースに憧れる人たちが既に居ました。
彼らは、日々秋葉原を徘徊し、苦労して部品を探しました。手に入らないものは、つてを頼ってアメリカから取り寄せたりもしました。
ACER/XTコンパチ機は、彼らから流れてきたコンピューターです。
私は、この機械をパケットクラスターのノード専用に使っていました。
注−XTコンパチの数ヶ月後には、今度はATコンパチ機が写真の本と共に漂着しました。
私の手にした初めてのラップトップです。
TNCと呼ばれるモデムに相当する装置をつなぎ、車載無線やハンディートランシーバーを使ってBBSや自分のパケットクラスターノードにアクセスし、今で言うモバイルを運用したこともあります
注−IBMのアーキテクチャ公開から月日は流れ、DOSのバージョンが5に変わったこのころ、コンピューターホビーに新しいカルチャーが芽生えました。上でも触れた、いわゆるDOS/Vです。
コンピューターショップにマザーボードやタワーケースが並び始め、私もフラフラとそちらの方に吸い寄せられそうになりました。
それを阻んだのは、早くからタワーケースに馴染んでいた前述のOM達です。
彼等の曰く、、「コンピューターアッセンブルのお遊びを今頃になって始めるの?」
「そんな時代遅れ、やめなよ」
右の写真は上の本の奥付ですが、1988年の初刷りだったことが判ります。原著である米国版を持っていた人もいました。
彼等にとっては「DOS/V」も確かに陳腐化しつつあるカルチャーだったのかもしれません。
この忠告に従ったのが、幸だったのか不幸だったのか、未だに判じかねています。
98メイトです。
DOSからWINDOWSへの移行期に発売された98メイトは基本的にはDOSで動作するように出来ていました。
WINDOWSを走らせるためには、パッケージを買ってDOS上でインストールし、config.sysやautoexec.batまで自分で書かなければなりませんでした。
MACの先進に脅威を感じたマイクロソフトが慌てて開発した初期のWINDOWSは、
とるものもとりあえずDOSに継ぎ接いで何とか格好を付けた代物で、様々な問題を内包していました。
その最たるものが、メモリーマネージャーです。
DOSは大きなメモリー空間を扱えませんでした。
15年も前のことなので、詳しくは覚えていませんが、そのままでは640Kbyte、裏技を使っても1Mbyteまでしか扱えなかったと記憶しています。
所謂「640Kbyteの壁」と「1Mbyteの壁」です。
これをクリアするためにhimem.sysやemm386.exe等の危うげな仕掛けを使っていました。
メモリーマネージャーと呼ばれる、これらの仕掛けはconfig.sysやautoexec.batの中で指定したり呼んだりして常駐させます。
これについては忘れられない思い出があります。
ハム仲間の東山さん(JH1EVE)にノートパソコンのWINDOWSが起動できないから見てくれと頼まれました。
DOSに下りて、config.sysとautoexec.batをエディタ(seditだったと思う)で開いてみると、
emm386.exeのパスが間違っていました。
間違いの元凶は、dosディレクトリにもwindowsディレクトリにもemm386.exeが存在し、
しかも、両者は同じファイル名で内容が違うことです。
これは、同じdosのバージョンで、異なる動作環境に対応するための苦肉の策なのです。
つまり、バッチファイル中のパスを書き分けるだけで済ますという、言わば「その場しのぎ」です。
ファイル名を変えて両者を判別できるようにすると、プログラム中で当該メモリーマネージャを指定する部分を動作環境に合わせて二通り用意しなければならず、手に余ったのでしょう。
当時のWINDOWSは、繕っても繕っても、次から次へと綻びが生じる巨大なズタ袋のようなものでした。
98メイトの次にヴァリュースターのフラッグシップV20を購入し、
それを限りにハイエンド機種の新品を追いかけるのはやめました。
平均化が進み、普及型モデルでも合格点の点けられる仕事が出来るようになったからです。
普及版モデルか、発売から2年程度経過したフラッグシップモデルの中古で充分だと考えています。
少なくとも実用面での能力不足を感じたことはありません。
エントリーモデルでも昔のような不自由を味わうことはないでしょう。
周辺機器を増設するたびにIRQやDMAのやり繰りまでしなければならなかったころとは隔世の感があります。
2006年3月のラインナップです。
(注−米印付きのセットは2010年以前に手放しました)
左からDELL,DIMENSION,4300Sが二台、*牛丼並盛り
牛丼コンピューターは中国製。(2010年に廃棄)
4300二台は、中古品です。
中央のDELLの前に置かれている四角い板はタブレットです。
イメージを扱うには、今や必須のツールだと思います。
注/タブレット型端末(iPad等)とは異なる機器です。画像処理の入力手段として大昔からあった装置です。
HAMのRigの向こう側、手前が*ValueStar-V20、
奧が*DELL,Optiplex,GX110(自宅サーバー用)
他に三機種ありますが、現在は殆ど使っていません。
(注)−
GX110はHDDがクラッシュし廃棄。それに伴い、自宅サーバーも閉じました。
その後、牛丼コンピューターもクラッシュ、これも廃棄しました。
V20と右下の二台のコンピューターも手放しました。
その使っていないコンピューターが右の二枚の写真。
左がエプソンの*PC286VE、PC98シリーズのコンパチ機。
購入したのは1990年頃という年代もので、
OSはもちろんDOSです。
仕事にも使いましたが、主にNIFTYやアマチュア無線のパケット通信のターミナルとして使用していました。
PCVANやNIFTY用の端末としても使用していました。
今は、極々たまにプロ棋士の棋譜を鑑賞する程度です。
右側が*PC9821/AS(100MhzODP装着)、買ったのは1993年頃です。
98メイトは、私が手にした中でWINDOWSがそこそこに走る最初の機械でしたが、DOSに下りて作業せざるを得ない状況もよく生じました。
インターネットにアクセスするようになったのは1995年ですが、このコンピューターで始めました。
「花の情報館」「花の展示室」のファイルも全てこの機械で作成しました。
商用ネットについては、メイトを購入してすぐにPCVAN、NIFTYに加えて、新たにPeopleにも加入しました。
PC9821ASは、今でもたまに使っています。(使用頻度はPC486VEより高い。)
歴代のコンピューターで最も現役期間の長いのが、この機械です。
上の注に記したとおり、これらの機械は、全て手放しました。(2010年現在)
左がエンデバーのノート。エントリーモデルです。OSはWINDOWS7
主に、無線移動運用時のログと情報収集用(パケットクラスタ)に使っています。
エンデバーは、その昔、「小次郎」と、どちらを買うか悩んだとき以来、新規購入の度に候補に挙げるのですが、実際に買ったのは初めてです。
(上の、その昔の時には「エンデバー」でも「小次郎」でもなく、結局、前述の「98メイト」を買ってしまいました)
右がO'ZZIOのMXA273710SDE。OSはWINDOWS8
上に書いたように、例によってエンデバーも選択肢にありました。一時は殆どエンデバーできまり!だったのですが、、
2013年の四月一日に値上げされてしまった!のです。それも大幅に!で、急遽、O'ZZIOに変更しました。
しかし、昨今のコンピューター、初期設定は本当に楽になりましたね。
almost立ち上げただけで、すぐ使えました。申し訳程度の内容の薄っぺらなマニュアルを読むまでもなく、アチコチいじくっている内に設定は済んでしまいました。
今年(2013年)の二月から回線を光に変えました。安くなったからですHi
一つの回線に三台の電話機が並列に接続されている当家の場合、終端装置の設置場所は屋内引き込み部付近に限定されます。
(ADSLのときは、室内信号線のどこにでもモデムルーターを設置することができました。)
離れた場所(上の階)にあるコンピューターまでLANケーブルを引くのは困難なので、無線LAN(11n)を使うことにしました。
しかし、覚悟の上とはいえ、その「遅さ」には呆れました。
「親機と子機が離れすぎているからだ」、なるほど、、
しかし、そもそも、近ければ線が引けます。遠くで使えるからこその無線LANではないのでしょうか?
建物内にアクセスポイントを複数設ければ解決しますが、結局、各所に線を延ばすことになり、数台のコンピューターによる個人使用のLANではケーブルを直に繋ぐのと大して変わりません。
コンピュータの間近までケーブルを通せるのに、遅くなるのを承知で無線LANを採用するとしたら、それはもう頭が病気です。
注1−出先や屋外で使うWiFiの利便性と混同しないで下さい。
注2−ハムである私はPLCに大反対です。
壁を隔てたり階が異なるくらいで大きく速度が落ちる無線LANの現状は、お寒い限りです。
有線LANの1000Mbpsに対して、無線LANは300Mbpsしかありませんが、本来、WONの受け手としては充分な能力です。
インターネット接続は光回線でも100Mbpsしかないからです。
このマージンを活かすには、しかし、好条件の下で無線LANを走らせなければなりません。
かくして、「光回線を導入せんがために転送速度の下落に甘んじる」という本末転倒をしでかす羽目になりました。
注3−あまりの鈍足に業を煮やし、苦労を覚悟で有線LANを引きました。
当家は一部鉄骨なのですが、その鉄骨部の辺りにケーブルを通さねば10メーター以上遠回りになってしまいます。
階段の手摺りに絡ませ上階の踊りから室内に引き入れるのですが、サッシ製のドアをどうやって通すか悩みました。
厚いコンクリートに穴を穿つのは無理なので、ドアの隙間を這わせて敷居を横切ります。ドアは四六時中半開きです。
無線LANは撤去せず、iPadとエンデバーノート用に使っています。
コンピューターホビーは他の趣味に比べて「はまり方」が浅く、難物に思えるプログラミングは、横目で睨むだけで、避けて通ってきたきらいがあります。
コバル、フォトラン、パスカル、C、名前は知っていても、それらを使いこなす諸先輩を畏敬の念を持って仰ぎ見るのみで、自ら手を染めることはありませんでした。
例の、#include<stdio.h>を見ると、それだけで頭痛がしたものです。
ちなみに、多くの入門書で、この文言を初心の内は「おまじない」もしくは「呪文」の様なものだと思えと書いていますが、かえって、話をややこしくしています。
文字通り、「スタンダードIOヘッダーファイルを取り込む」と説明されれば、何のことはないのに、、。
しかし、1995年頃からインターネットで遊ぶようになって、
「WEBデザインにはCGIが欠かせない」という猫も杓子も巻き込んだトレンド
に内堀まで埋められてしまい、Perlのお勉強を渋々始めました。
ところが、プログラミングに詳しい知人のいなかった当時の私は、どうやって学べばよいのか解りません。
ネットには包括的に情報を提供しているサイトが見つからず、継ぎ接ぎだらけの迷路を彷徨うばかりで埒があきません。
しかたなく、解説書を探しましたが、これが大変でした。
(大企業でさえ、その殆どがホームページを持っていなかった時代です。ネット販売は未だ普及の途についたばかりでした。)
近くの本屋さんを手始めに、文教堂などの大型店舗も探し回りましたが、パールのパの字もありません。店員に聞いてみても、真珠と間違われるのが関の山。
ついには秋葉まで出向き、当時、一階のフロア全てが書籍販売に充てられていたコンピューター館に行きましたが、ここにもありません。
店員に聞いても要領を得ません。洋書でも構わないと妥協案を提示しても、「あるかもしれないが、、、」、一人や二人の引き合いには対応しかねると顔に書いてありました。
上の写真は、何度目かの遠征でやっと手にしたPerlの解説書です。
この一種類で、しかも、在庫は一冊しかありませんでした。
この本の最大の欠点は英語で記述されていることです。他になかったのですから仕方ありませんが。
この話には、後日談があります。
上の本をコンピューター館で手に入れてから数ヶ月後に、ソフトバンク出版から出されていた、Perlプログラミングの訳本を見つけて大袈裟ではなく小躍りしました。
奥付を見てびっくり。初版が1993年2月28日、1996年4月10日発行の第10刷だったのです。
あの苦労はいったいナニ? なんで、どこにもなかったの?
Perlは私が曲がりなりにもソースが書ける唯一の言語です。
もっとも、basic、html、javaスクリプトや、アプリケーション上で動作するマクロと呼ばれる準プログラムは色々と使ってきました。
しかし、それをもって「プログラミング言語を駆使できる」とうそぶいたらアチコチからお叱りを受けるでしょう。
単体のパッケージで売られていた高級言語が、表計算ソフトのサブセットに「降格」する現今では、袋だたきの目に合うかもしれません。
私にしては珍しく、超初心の段階で投げ出さなかったのは、この言語の特殊性におもしろさを感じたからです。
Perlはインタープリタですが、ベーシックなどとは異なり、一括変換で機械語実行ファイルを生成します。
かといって、コンパイラでエグゼキュータを作成するわけではありません。
この「どっちつかず」に興味を覚えました。
もっとも、それによってもたらされる利点を、鮮明に認識しているわけではありませんが、、
私が感じているPerlの長所は二つ、
覚えたての頃には「アクセスカウンター」「ログ」「掲示板」「オンラインチャト」等の定番を一通り試して遊びました。
この内「カウンター」と「掲示板」は公開当時(1996年3月)の「花の情報館」にも載せました。
掲示板にはかなりの書き込みがありました。
「オンラインチャト」は自宅サーバー上に置きましたが、私に話しかけてきたJH1DTC佐伯さんが唯一の利用者でした。
最近はCGIを使わなくなりました。このWEBにも使っていません。
理由を端的に書けば、少なくとも私の目指すWEBデザインには「CGIでしか、なし得ぬ仕事が、それ程多くない」からです。
HTMLとCSSのコンビで間に合うところに無理矢理CGIを使って、かえって仕事の品位を落としてしまう。
そのような本末転倒は避けたいと思っています。
極言すれば、CGIの存在意義は「クライアントから受け取ったデータを覚えておいて、好きなタイミングで活用できる」ことに尽きます。
これは確かに代役の利きがたい能力ですが、その成果に過大な期待を抱くと、十中八九落胆を味わうことになります。
「高嶺の花」は平地には咲かないようです。
誰もが手の届く手段で大きな成果が得られるほど、世の中甘くないということでしょう。
記事と文責 / 中森 進一